檄文のこと

日本の最先端で最先端のことをしよう

東京という都市に象徴される明治以降の日本は、数百年かけて中世から江戸期に蓄えられた地方の資源を、食いつぶしながら肥大化していった。周辺で生産された資源や人間を、どんどん中心に集め、大量に消費する、それが私たちの近代の正体である。

さらには国内にあきたらず海外へと拡大し、世界各地の周辺を「開発」する。物も人も都市へ都市へとむかい、中心への集中はますます増加した。交易の対称性は失われ、搾取と呼んでもよいほどに、その非対称性は増している。皮肉なことに近代のグローバル化や発展の構図は、この不均衡の拡大の果てにある。

これが「未開」を旅する人類学者である私の、歴史観であり世界観である。


しかし現実には、そうこうするうちに周辺は疲弊し、物も人も生めなくなっている。農地は放棄され、村には子供がいなくなった。わずか百年あまりで、これまで数百年かけてつくりあげてきた日本の山村の資源は枯渇し、いよいよ終焉を迎えようとしている。

さてどうする?

能登半島の最先端である上黒丸は、まさに日本の近代の最先端である。私たちがこの最先端において、周辺と周辺どうしの交易をとりもどすことで、オルタナティブな「近代」、もうひとつの「東京」を表現したいとかんがえている。それが私にとっての社会彫刻である。歌を持つ人は歌を交易し、踊りを持つ人は踊りを交易し、野菜を持つ人は野菜を交易し、魚を持つ物は魚を交易し、言葉を持つ人は言葉を交易する。

つどえ万国の表現者たち!

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